Madenokoujiのブログ

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本田宗一郎に学ぶ夢を叶える方法🏍️🚗

機械が空を飛んでるうぅぅ

1903年ライト兄弟が世界で初めて空を飛んだ年。

その3年後の1906年に生まれた本田宗一郎

実は、飛行機が宗一郎少年のハートに火をつけたのだ。

宗一郎小学校5年の時である。静岡県の和地山練兵場で、飛行機の曲芸飛行のイベントがあることを聞きつけた。

宗一郎の自宅から片道20km以上の距離がある。だけど宗一郎は、どうしても飛行機を見て見たい。その一心で、親にも内緒で、大人サイズの自転車に無理やりまたがり、凹凸のジャリ道をフラフラになりながらも一人で向かったのだ。

なんとか辿り着いたものの、入り口で大問題が勃発。「ええええ。入場料払うの❓」。

親に黙ってきた宗一郎少年に入場料を払うだけのお金などない。そこで、宗一郎は大きな木を見つけ、その木によじ登った。すると、ちょっとだけ見えた。

「おおおおおおおおおおおおおおおお。飛行機だ。機械が空を飛んでるぅぅぅ❗」

宗一郎は、生涯、その感動が忘れられなかったと言う。

これが、後に、世界のHONDA(本田技研工業)を生み出すことになる、ミスターHONDAの少年時代なのだ。

1954年、好景気が続いていた日本に不景気の波が押し寄せていた。

そんな中、「世界一でなければ日本一じゃない」と、本田宗一郎率いるHONDAは世界を目指すのだ。

まだたった1種類のバイクをちょろちょろと輸出し始めたばかりのHONDAが、世界一のバイクレース、イギリスのマン島TT(ツーリスト・トロフィ)レースに出場すると宣言したのだ。

宗一郎47歳。本田技術研究所として創業して8年目のことである。

このレースに出場するのは世界のトップメーカーばかりだ。ここでの優勝は、世界一のバイクメーカーであることの証明になる。しかし、まだ町工場が一皮むけたに過ぎなかったHONDAには無茶な挑戦であった。

しかし、ミスターHONDAの頭の中にあるのは「世界一こそ日本一」の「夢」があった。

目標が高いほど燃える。それから1カ月後、HONDAの全社員にある文書が配られた。

「TTレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う」

 

苦しい時だからこそ「夢」が必要

ところがこの直後、トラブルが押し寄せた。主力製品にトラブルが発生したのだ。会社設立以来最大の経営危機に見舞われ、レースに参加している場合ではなくなった。

しかし、宗一郎は『苦しい時だからこそ、「夢」が必要なんだ』と、強硬にマン島レースへの視察ツアーへと出発する。初めて見るTTレース、その迫力に度肝を抜かれた宗一郎。HONDAのマシンの3倍はありそうな馬力なのだ。

「こりゃあ、考えたこともないレベルだわ」と思わず弱音を吐いた。

しかし、「できない」「ムリ」「不可能」と言われると、逆にワクワクしてしまう宗一郎には、「諦める」という選択肢は無かった。

無謀なる「夢」への挑戦だ。

しかし、結果的に、社内はこれで一気に活気づくことになったのである。

それでも、レース出場までの道は予想以上に険しく、1年目ではダメ。2年目もダメ。3年目もダメ。4年目もダメ。そして、5年目……。ついにレース出場を果たしたのだ。しかし、実はこの間、凄いことが達成されていた。

世界一を目指すその間に、いつの間にかHONDAはバイクの生産台数日本一に輝いていたのである。世界一を目指していたら、あっさりと日本一に❗

しかし、ミスターHONDAにとって、日本一は日本一じゃないのだ。世界一こそ日本一なのだ。

そして、レース出場から2年目で、なんと優勝を果たすのだ。

外国のマスコミからは、「東洋の奇跡」と絶賛された。

「The Power of Dreams」

これこそ「夢」の力である。

 

「夢」は「最終地点」ではなく「通過点」

「夢」に向かって進む時、トラブルなどトラブルではなくなるのだ。経営不振だろうが、あらゆる難関は、燃え上がる炎にくべる薪になる。日本一を目指したいのなら、世界一を目指せばいいのだ。

「夢」をいつか辿り着きたい最終地点にするのではなく、通過点にしてしまえば、「夢」は一気に加速する。

本田宗一郎は創業間もない頃から、朝礼でミカン箱の上に立ち「世界一を目指す」と宣言していた。

ちなみにこのエピソードに刺激を受けたソフトバンク孫正義社長は創業初日、ミカン箱の上に立ち、「5年以内に100億円、10年で500億円、いずれ1兆円企業になる」と演説し、あまりに壮大すぎる「夢」を聞かされたアルバイト社員は翌日に会社を辞めたそうだ。

本田宗一郎は、右手がとても奇麗であった。しかし、左手は傷だらけ。

右手はハンマーを持って叩くほうですから、奇麗なまま。それに対し左手の方は、ハンマーに叩かれて、怪我をしていない指がなかったのである。取れそうになった指をつないであったとも言われている。傷だらけの左手。その傷は宗一郎の悔しさの数であり、その悔しさが彼を世界のミスターHONDAにしたのだ。

「私のやったことの99%は失敗だが、1%の成功のおかげで、いまの私がある」

「新しいことをやれば、必ず、しくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる」

 

私見

やはり日本は凄かったのだ。残念ながら過去形の話だが。現パナソニック創設者の松下幸之助ソニー創設者の盛田昭夫井深大、‥‥

今の元気のない日本に、敢えて挙げるとしたらトヨタ豊田章男位ではないだろうか❓

このような偉大な方々は別世界の話として、肝心な私自身は如何だろうか❓

68歳の爺になって5日、これでも些細な「夢」を抱いて生きている。

衰えた頭を鞭打って、人生最後の「夢」がどうしたら実現できるか考え続けている。

まず現在を、そしていつ最期を迎えるか分からないが、定量的に数値化して誰でも納得できるストーリーを立案する必要がある。

今までは、予想もしていなかった突然のお袋の介護・不在になった故郷の自宅の処分・墓じまい・我が家の乏しい資産の見える化‥‥を何とか解決してきた。

一応ベースとなる案はできているが、経済分野の能力が無いため今後の物価高騰の把握が難しい。勿論参考となる文献は幾つかあるが、もしそれが現実になったら多分殆どの高齢者が生活できない可能性が高いとの結論に至ってしまう。

家内が元気になったら地域包括支援センターに相談し、介護の情報を収集する予定になっている。

まずは残された老後の生活を、悔いなく過ごしたいと考えている🤔

 

詳細

toyokeizai.net